Manaka Harumichi

格体験記「自分本位であれ」

 一回生の春に母校に合格体験記として寄稿した文章である。

 私はこの春、京都大学の学生となった六十一期生である。京大生なのか、と感嘆した後輩諸君は要注意である。経歴は多くを意味しない。真に価値があるのは、その人がいかに人生を費やしたかである。
 京大は多数のノーベル賞受賞者と多数の留年生を輩出していることで有名だが、前者は龍となった鯉、後者は腐った鯛に喩えられよう。腐っても鯛などという言葉があるが、龍となった鯉がもはや鯉でないのと同様に、腐ってしまった鯛は単なる腐った鯛であり、すなわち単なる生ゴミである。

 名声のための受験など糞食らえと叫び続けてきた。有名校ならと興味のない学部を受ける友人には理解し難いものを感じたし、学歴を求め進学したものの目的を見失い死んだ魚のような目をしていた先輩のことは哀れだなと思っていた。進路ガイダンスのたびに国公立大学を勧め、行事の時間は減らし「学生は脇目も振らず勉学に励み、そして然るべき進学実績を」と言わんばかりの先生方の熱の入ったご指導ぶりに、私の反抗心が益々燃え盛ったことは言うまでもないだろう。
 学歴至上主義とも呼ぶべき思想は世間に広く流布している。この思想に傾倒している後輩諸君も少なくないだろうし、かくゆう私もかつてはそうであった。この呪縛は猛暑日に次から次へと溢れ出す汗のごとくベタベタとしつこく、なかなか拭い難い。しかし真に自分自身の生を歩まんとするならば、この呪縛から諸君は逃れなければならない。

 進路決定が今後の人生を大きく決定するものだということは、言うまでもないだろう。進路を考えることは自らの人生を考えることなのである。いかに生きていきたいか、いかに己が人生を費やしたいか。それと向き合うことに他ならない。そこには他人の評価が入る余地は一切ないし、そうであるべきである。
 学歴至上主義の問題点はここに、つまり価値の創造が他者に依存しているというところにある。自らの進路を他人に吹聴しなければ価値が見出せない。そのような張りぼての価値を基準に人生を左右する決定をなすべきだろうか。言うまでもなく、否、である。

 進路決定の指針たるは何か。それは目的であろう。進学する目的、これが全てに優先する。それは全くもって自分本位でなければならない。自分はどのような学問を修めたいのか、どのような技術を手にしたいのか、どのような環境に身を置きたいのか、そして何を成し遂げたいのか。自分自身と向き合い、問いに答えを出していく必要がある。

 さて私の話である。私は高校二年次の文理選択で、自分が進路に対し全くの白紙状態であることを突きつけられた。自分は大学に行くものだと思っていたのに大学に行ってまで学びたいことがなかったし、それに気づかなかった自分にも驚愕した。高二の夏からの半年間は自らの好奇心と向き合うことに終始した。英語に興味が湧けば海外への進学を考えIELTSを受検したし、数学に興味が湧けば数学好きのイベントを見つけ参加するなどした。アンテナをはり自分の興味関心を探り、その先にいかなる人生を歩みたいかを考えた。
 半年間苦しんだ甲斐あり自分の関心ごとを見つけられ、今は数学の研究職を目指している。受験勉強で辛いときにも、自分の夢を思えば鉛筆を握り続けられたというのは嘘ではない。

 進学する目的は何か、考え直す必要がある。問うことは易しいが、答えるのは難しい命題である。自らの将来像が明確な人は多くないだろうし、興味の向く物事に出会っていない人もいるだろう。来たる卒業というタイムリミットまでにそれを見定め、次なる一歩を踏み出さなければならないというのは、いささか酷なことである。しかしここで自分自身と向き合った時間は、受験を乗り越える上で大きな支えとなり、そして今後の自らの生を中身あるものにしてくれるだろう。
 後輩諸君が進路決定という問いに何らかの答えを出せることをここ京都からお祈りしている。